文字サイズ

地域の元気を生み出すJA

〜2025年 2度目の国際協同組合年に向けて〜

春惜しみ甘く香るは「なつたより」

- 日本一の「長崎びわ」共販百年の歴史と「協同組合」の底力
長崎県 JA長崎せいひの取り組み
新開賢也 一般社団法人日本協同組合連携機構(JCA)基礎研究部 主席研究員

 昨年の11月、国連総会は2012年に続き、2025年を2度目の国際協同組合年にすることを宣言しました。
 JAグループは、持続可能な地域社会をつくる日本の協同組合の取り組みについて、認知を高めていく絶好の機会として捉えてまいります。
 今後、「協同組合」についての関心が高まることが想定される中、全国各地で「協同組合の力」を発揮しているJAの取り組みを紹介します。

<長崎県:JA長崎せいひ>
 JA長崎せいひ は長崎県の西南部に位置し、長崎市、西海市、諫早市の一部、時津町、長与町の3市2町を事業区域としています。周囲を海と山に囲まれた温暖な地域特性をかし、多彩で魅力ある農業を展開しています。
 主な農産物は県内産の大半を占める温州ミカンと全国1位の生産量を誇るビワです。ミカンの生産量は県内生産の約6割を占めており、中でも高品質・高糖度ミカンを当JA統一ブランドの「味ロマン」として売り出しています。また、生産量日本一のビワは全国的に知名度を確立しており、「長崎びわ」ブランドとして全国に浸透しています。さらに、畜産業も平成24年に開催された第10回全国和牛能力共進会で、当JA管内の肉牛を含む県下代表牛が日本一の評価を受けており、肉牛のJA独自ブランドである「長崎和牛・出島ばらいろ」も市場から高い評価を受けています。
 今後も組合員とJAが一体となって産地づくりに取り組み、「長崎せいひブランド」をはじめ、積極的な市場展開を図っていきます。
 働きやすく、やりがいのある職場を目指し、女性活躍にも精力的に取り組み、令和5年5月18日に「えるぼし」(最高位にあたる3段階目)の認定を受けています。

枇杷色に美しく輝く「なつたより」(収穫1週間前)

無性むしょうに「びわ」を食べたくなることはありませんか?
 「びわ」といえば、本場はどこなんでしょう?
 - もぎたての「びわ」を食すのは春まで待ちましょう。
   びわ収穫量日本一は「長崎県」ですよ。

なんだか、急に「びわ」を食べたくなることはありませんか?
淡い枇杷色びわいろに輝く皮をプリッとむいて、みずみずしい実を口に含む。
さわやかな甘みと香りが、口から鼻に抜け、なんともいえない良い気分にひたる。
ああ幸せ。

ああ食べたい。
今、食べられないとわかると、なおさら食べたい。

皆さん、気持ちはわかります。
でも、春まで待ちましょう。

 その「びわ」を待ち焦がれるお気持ちをお伝えすべく、びわ収穫量「日本一」の長崎県のなかで、「長崎びわ」のブランドとして、過去には「茂木もぎびわ」として知られている生産地の JA長崎せいひ 南部営農経済センター 別所次長に、「長崎びわ」の素晴らしさを伺ってみましょう!

収穫量日本一の「長崎びわ」の由来と、「協同組合」
- 江戸時代後期からの由緒と、「共同販売」百年の歴史

 長崎県の令和5年(2023年)産の「びわ」の収穫量は564トンで、全国の24%を占め、「日本一」となっております。(農林水産省作物統計調査)

 「茂木びわ」、今でいう「長崎びわ」の由来については、江戸時代後期、三浦シオ(通称)さんが、長崎唐通詞から「びわ」の種を譲り受け、「茂木」の実家に持ち帰って、畑にいたことが始まりとされています。
 三浦シオさんが伝えた「茂木びわ」は、その品質の優秀なことが認められて、次第に、全国に名が知られていったようです。
 その歴史については、「茂木枇杷発達史」(編集:茂木枇杷発達史編纂委員会 発行日:昭和46年3月31日)や、「長崎びわ共販百年の歩み」(編纂:びわ共販百周年記念誌検討委員会 発行日:平成29年11月9日)といった文献に詳しく書かれていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読ください。

「茂木びわ」の原木

 あまり知られていないことなのですが、「長崎びわ」は、実は「『協同組合』と深い関係」にあるのです。
 「びわ」の生産が増えるにつれ、市場を開拓するために「長崎果菜株式会社」が設立されたのですが、生産者のためにならないことも多く、大正6年(1917年)に「茂木枇杷共同販売組合」が組織され、「共同販売」が始まりました。今から約107年前の出来事です。
 その後、大正11年(1922年)に「茂木枇杷組合」、昭和4年(1929年)に「長崎茂木枇杷同業組合」へと発展的に改組されていきました。
 本格的な「協同組合」としては、昭和22年(1947年)の農業協同組合法の施行を受けて、昭和24年(1949年)には15の「茂木枇杷農業協同組合」が設立されましたが、力を結集するために合併を重ね、この管内では、1つの専門農協が長崎びわ部会の一組織として存続してはいるものの、「長崎西彼農業協同組合」(JA長崎せいひ)に、出荷・販売機能が集約され、一元化されております。
 これらの歴史を踏まえるに、「農業『協同組合』や、前身の各種『組合』は、『消費者と生産者をつなげる重要な役割』を果たしてきた」、「流通や消費行動などの社会状況の変化に応じて、『協同組合』や各種『組合』は、『時代に合わせて、柔軟かつ臨機応変に姿を変え続けてきた』」と、言い得るものと思います。

 固めの話題はこのぐらいにして、早速、新規就農3年目、新進気鋭の 西島さん に貴重なお話を伺ってみることにしましょう。

歴史ある「長崎びわ」を未来に繋げていく
- ライフスタイルにマッチした新規就農

新規就農した新進気鋭の西島さん

 私は、軍艦島を望む長崎市南西部で育ち、公務員として奉職しておりました。
 仕事には満足しており、また達成感も充分に味わいましたが、人生を振り返ったときに、定年後の姿を描けないことに、多少の不安を感じることもありました。
 仕事で、島原の生産者の方と接する機会も多く、平成3年(1991年)前後の雲仙普賢岳噴火災害から、たくましく復興を遂げ、明るく、楽しく作物を育てているお姿に触れ、そのライフスタイルへの憧れが募り、「定年まで待てば」「安定ば捨ててどがんすると」との声もあったのですが、思い切って早めに退職し、新規就農することにしました。

 いちごやアスパラガスも考えたのですが、年中、収穫に追われるのは、子育ても一段落した夫婦二人でのライフスタイルとは「ちょっと違う」と思い、「では果樹にしよう、ならば柑橘かんきつか梨にするか」とも考えたのですが、「長崎だったら、やっぱり『びわ』やね」との話になり、まずは「びわ」一本で始めました。少しずつ、柑橘にも手を広げていきたいと考えております。

 「びわ」生産は、技術的に難しく、園地は急傾斜地であり、生産者のご子息が後を継ぐためのハードルが高く、特に高齢化が進んでいると聞きます。
 「私のような脱サラの素人であっても、『びわ』でそれなりにやっていける」となれば、ご子息の後継者の方、または私のような新規就農者の方が増えるかもしれません。「歴史ある『長崎びわ』を未来に繋げていくキッカケになればよかね」と、夫婦ともども語り合っているところです。
 「もうかる農業」、「効率的な農業」という観点も必要かとは思いますが、「歴史ある作物を未来へ繋いでいく農業」という魅力にかれ、新規就農することも「あり」だと思います。

 「長崎びわ」は、農業「協同組合」を抜きにして語れません。消費者の方と我々生産者を繋ぐ、ときには生産者を鼓舞こぶする、大きな役割を担っていただいていると考えております。

 続いては、私の「長崎びわ」づくりの師匠であり、農業「協同組合」の経営や要職を担われ、経験も実績も豊富な先達である、長崎びわ部会 濵口はまぐち顧問(前部会長)と 峰部会長 の、熱い夢と想いに、触れてみてください。

「長崎びわ」は農業「協同組合」の申し子ばい
- 2度の危機も「ピンチはチャンス」

 もともと、私どもは「長崎びわ」生産者の出身ですが、縁あって「長崎市農業協同組合」(現JA長崎せいひ)に奉職し、「営農指導」や「販売・購買事業」だけでなく、「信用事業」や「共済事業」など幅広く、業務を経験して参りました。
 今はJA役職員としての役目を終え、一生産者として、また「長崎びわ部会」の一員として、汗を流している毎日です。
 近年、訪れた2度の危機を事例として、農業「協同組合」が、「長崎びわ」の生産に如何いかに貢献してきたかを、是非、お話しさせてください。

濵口顧問の「長崎びわ」園地にて 別所次長(左)、濵口顧問(中)、峰部会長(右)
2006年9月の塩害
⇒「なつたより」の普及で「災い転じて福となす」

 平成18年(2006年)9月17日に長崎県を襲った台風13号は、風台風であり、満潮時と重なり、茂木地区を含む橘湾たちばなわん沿岸部を中心に、海水を巻き上げ、園地に吹きかける形となりました。
 どのような作物であったとしても、真水の代わりに海水をいては、間違いなく枯れます。それと同じことが、実際に起きたのです。
 その当時、私どもは JA長崎せいひ の営農指導や販売部門に在籍しておりましたが、生産者の方々の悲嘆ひたんたるや、筆舌ひつぜつに尽くし難いものがありました。
 職務というより、「愛する『長崎びわ』、郷土と地域を守る」との強い想い、責任感から、生産者の方々を「どがんかせんばならん」と固く心に決め、なにから手を付ければよいか、「長崎びわ」の未来に向けてなにができるか、寝食を忘れ、考え抜きました。
 そのときに、「災い転じて福となす」「ピンチはチャンス」との声が、天啓てんけいのように、生産者の方々、また私どもの耳に届いた気がします。

 そのころ、「長崎びわ」の主力品種は、「茂木」種から「長崎早生わせ」種へと移りつつありましたが、「もっと大果で、高糖度で、芳香で、みずみずしい、要するに『うまい』」であり、「『がんしゅ病』(細菌により、幹にコブができ、枯れてしまう病気)などの病気に強い」品種へと、さらに更新する必要性を感じておりました。
 「びわ」は、「台木だいぎ」(根部と一部の幹部を残しカットしたもの)に、「穂木ほぎ」(幹部より上を残しカットしたもの)を「」し、育てます。
 「穂木」としては、長崎県果樹試験場(現長崎県農林技術開発センター)が育成した数ある品種候補のなかの一つ「ビワ長崎15号」が最適であり、また「台木」としては、品種「シャンパン」が適しているものと、内々考えておりましたものの、なかなか話を進めるタイミングがありませんでした。
 というのも、良い品種であっても、数量がまとまらないと、そもそも認知していただけないし、出荷しても流通せず、消費者の方にお届けすることができないからです。
 また、「びわ」の場合は、「接ぎ木」してから収穫するまで4年かかりますので、消費者の方に喜んでいただける品種を厳選して、推奨、投入しなければなりません。

 「ピンチをチャンス」に変えるために、生産者の方々、長崎県や各市町村の行政の方々とともに、関係者の方々に積極的に働きかけ、適切な試験栽培から始め、「シャンパン」台木を整え、「なつたより」(ビワ長崎15号)との品種登録を経て、枯れてしまった「びわ」園地を、期待の新品種「なつたより」の園地に、生まれ変わらせることができました。
 おかげさまで、「なつたより」は、消費者の方から「大きい、甘い、香りが良くてフレッシュ。おいしい。」と、大好評をいただいております。

「なつたより~夏の訪れを告げる果実」リーフレット
1 2
記事一覧ページへ戻る